寺町計算言語

計算の話や言語の話もするかも。多少は。※個人の見解であり、所属する組織の公式見解ではありません

普通の人


言葉の使い方をめぐって行き違いが生じた経験は一度や二度ではすみません。思い返すと、原因が評価極性のずれにあることが多い気がします。その例が「普通の人」です。口をついて出た表現ですが、聞き手にネガティブ極性と判定されてしまったようです。「凡庸な人」と同義で、つまりは選民思想の発露ではないかと。

私の意図はポジティブ極性でした。「人間社会でまっとうに生きていける」という意味で。その反対、普通には生きていけない状態があまりにもありふれています。大学に長くいるというのはそういうことだと今まで思っていました。しかし九大ではそうでもないようです。サンプルサイズが少ないので判断を保留してきたのですが、観測できるのは、地域のエリートとして人間社会を動かしていけそうな学生ばかりです。どうしてそんなことになっているのか不思議です。

写真はエディンバラの Holyrood Park (2011年7月29日撮影)。会議の会場のすぐ裏にあった丘です。