寺町計算言語

計算の話や言語の話もするかも。多少は。※個人の見解であり、所属する組織の公式見解ではありません

記憶と性格


アスペルガーとADHDの時間感覚の違い―過去と現在と未来という本の紹介記事が面白かったのでメモっておきます。精神疾患を時間感覚の観点から分類しています。例えば、内因性うつ病は過去に、統合失調症は未来にとらわれており、広汎性発達障害は過去、未来、現在のいずれにもとらわれていないといった具合です。この分析が妥当かどうかは知りません。ただ、記憶と性格が関係する可能性の指摘は私にとって新規性がありました。

前にも書きましたが、過去の体験を覚えておくのが苦手です。記事には「学生時代の出席番号や生徒数まで覚えている人」が知り合いにいるとあります。私などは担任の名前すら怪しいです。この性質が現在の私の性格に関係する可能性がある (因果関係はわからないけど) ことは、考えてみればもっともです。どうして今まで気づかずにいたのでしょうか。

写真はムンバイとプネの間にあるカルラ石窟の石柱 (2012 年 12 月 12 日撮影)。彫ってあるのはブラフミ文字だと思いますが、私の知識では微妙に読めません。

NLP2015


京大吉田キャンパスで開催された NLP2015 についてのメモ。例によって箇条書きです。

写真は嵐電御室仁和寺駅 (2009 年 2 月 11 日撮影)。京都に住んでいる間は結局嵐電に乗らずじまいでした。自転車でどこまでも行けるので。

雨よけ


写真は京大工学部 3 号館中庭の駐輪場 (2013 年 9 月撮影)。

京大吉田キャンパスの微妙なところは全体的に雨よけつきの駐輪場が少ないことでした。おそらく自転車があまりに多すぎて整備する気にならないのでしょう。学部時代は情報学科の入っていた工学部 10 号館 (現総合研究 7 号館) でかなりの時間を過ごしましたが、その 10 号館前も雨ざらしでした。院に進学して、3 号館に移ると、雨よけつきの駐輪場にありつきました。これほどはっきりと quality of life を向上させる設備はなかなかありません。

九大伊都キャンパスでは、駐車場が遠すぎるという不満をよく聞きます。あいかわらず自転車に乗っている私には縁のない話です。建物のすぐ前に屋根付きの駐輪場があることで、私はとりあえず満足しています。

九州という虚構


某巨大学会には九州支部というものが存在します。会員は住所によって機械的に支部に割り振られるようです。同じように関西支部も存在するのですが、以前はほとんど意識することはありませんでした。他の支部などなおさらです。九州では観測範囲で目にする機会が増えました。代わりに関西支部が視界からきれいに消えました。九州では支部活動にかなりの人的資源が投下されているようです。

しかし、ふと思うわけです。九州というものは本当に存在するのだろうかと。島が物理的に実在するのはわかります。ただ、社会的なまとまりとしては、惰性で続いているだけであり、ひとたび人々がその存在を疑うように仕向ければ、案外あっけなく崩壊しそうな気がします。

そう思う理由は時間距離です。福岡 (博多) から見ると、熊本は 30 分、鹿児島は 1 時間 20 分です。いずれも新幹線で。距離的に近そうな長崎は 2 時間です。大分も 2 時間です。いずれも在来線の特急で。宮崎となると、どうやって行くのが正解かもわかりません。新八代でバスに乗り換える場合 3 時間 10 分かかるそうです。沖縄は飛行機がないと行けません。もっとも、「沖縄」で支部のメールを検索してもヒットしないぐらいなので、存在感がありません。

2 時間というのが微妙な所要時間です。1 時間 10 分で広島に、1 時間 45 分で岡山に、2 時間 20 分で新神戸に着きます。飛行機に乗り始めると時空が歪むので、東京に行くのと感覚的に変わりません。福岡から見えれば、物理的に同じ島にあるというだけで、長崎や大分を広島や岡山より優先するのは合理的選択ではなさそうです。

おそらく、九州という虚構が維持できるかは、福岡からその他の地方がどう見えるかではなく、反対にその他の地方から福岡がどう見えるかにかかっているのでしょう。宮崎は福岡の方を向いているのでしょうか。福岡の方を向くのが合理的選択なのでしょうか。

あと、熊本が九州の中心になっていれば、事情が違ったかもしれません。福岡は北に偏りすぎです。熊本には鎮台があったわけですし、可能性は充分にあったと思うのですが。

写真はカシュガル (2009 年 5 月 4 日撮影)。

震災の記憶


過去の体験を覚えておくのが人よりも苦手です。だからいつ何をしたかをメモりまくるようになりました。でも、それを始めたのは大学に入ってからです。それ以前の記憶はあやふやです。とはいえ、いま生き残っている記憶をこれから忘れる可能性は低そうです。でも、思い立ったときに書き記しておくことにします。時系列が怪しいのは仕方がありません。

取り上げるのは 1995 年 1 月 17 日の阪神淡路大震災です。いまでも私が単に震災と言えば、これのことです。

当時小学校 5 年でした。地下鉄沿線の団地に住んでいました。本震は 5 時 46 分。当然寝ていました。揺れを感じる前に地響きで目が覚めたように記憶しています。

直接の被害は軽微でした。直線距離では震源に比較的近かったのですが。家では皿が何枚か割れた程度でした。家の外も特に変化はありませんでした。とても静かでした。

情報収集はラジオに頼っていました。震源が近いということぐらいはすぐにわかったと思いますが、記憶があいまいです。

明るくなると晴れていました。山の向こうからパラパラと灰が降ってきました。ただ、注意して見ないと気づかないぐらい微量でした。相変わらず静かでした。確かに非日常だったはずなのですが、淡々と時間が流れていました。

電気がどうなっていたか覚えていません。断水はしていました。一度公園まで水を貰いに行きました。なんだか楽しそうだと母に指摘されたのを覚えています。

地下鉄はとまっていました。今確認すると、翌日には板宿まで運転を再開したそうです。とにかく中心部には簡単に行けない状態が続きました。大量の建物が倒れて、大勢が死んだはずですが、直接目にすることはありませんでした。直線距離で 5km ほどの場所が壊滅していたはずでしたが、1000km 先の出来事のように現実感がありませんでした。思えば、当時から想像力を欠いていました。

当時中心部にある塾に通っていましたが、そんな行事は吹っ飛びました。しばらくしてから、代わりに舞子にあった塾に行くことになりました。地下鉄で学園都市まで行き、そこからバスに乗り換えて舞子まで通いました。震災でもなければ、こんな経路を使うことはなかったはずです。

当時建築中だった新居は特に被害がなく、3 月に学期がおわるとともに、市内ですが西の方に引っ越しました。ますます中心部に行く機会が減り、被害を目の当たりにすることもなく時が流れました。

写真は箱根湯本駅から見た小田原方面 (2008 年 1 月 10 日撮影)。三線軌条です。