寺町計算言語

計算の話や言語の話もするかも。多少は。※個人の見解であり、所属する組織の公式見解ではありません

震災の記憶


過去の体験を覚えておくのが人よりも苦手です。だからいつ何をしたかをメモりまくるようになりました。でも、それを始めたのは大学に入ってからです。それ以前の記憶はあやふやです。とはいえ、いま生き残っている記憶をこれから忘れる可能性は低そうです。でも、思い立ったときに書き記しておくことにします。時系列が怪しいのは仕方がありません。

取り上げるのは 1995 年 1 月 17 日の阪神淡路大震災です。いまでも私が単に震災と言えば、これのことです。

当時小学校 5 年でした。地下鉄沿線の団地に住んでいました。本震は 5 時 46 分。当然寝ていました。揺れを感じる前に地響きで目が覚めたように記憶しています。

直接の被害は軽微でした。直線距離では震源に比較的近かったのですが。家では皿が何枚か割れた程度でした。家の外も特に変化はありませんでした。とても静かでした。

情報収集はラジオに頼っていました。震源が近いということぐらいはすぐにわかったと思いますが、記憶があいまいです。

明るくなると晴れていました。山の向こうからパラパラと灰が降ってきました。ただ、注意して見ないと気づかないぐらい微量でした。相変わらず静かでした。確かに非日常だったはずなのですが、淡々と時間が流れていました。

電気がどうなっていたか覚えていません。断水はしていました。一度公園まで水を貰いに行きました。なんだか楽しそうだと母に指摘されたのを覚えています。

地下鉄はとまっていました。今確認すると、翌日には板宿まで運転を再開したそうです。とにかく中心部には簡単に行けない状態が続きました。大量の建物が倒れて、大勢が死んだはずですが、直接目にすることはありませんでした。直線距離で 5km ほどの場所が壊滅していたはずでしたが、1000km 先の出来事のように現実感がありませんでした。思えば、当時から想像力を欠いていました。

当時中心部にある塾に通っていましたが、そんな行事は吹っ飛びました。しばらくしてから、代わりに舞子にあった塾に行くことになりました。地下鉄で学園都市まで行き、そこからバスに乗り換えて舞子まで通いました。震災でもなければ、こんな経路を使うことはなかったはずです。

当時建築中だった新居は特に被害がなく、3 月に学期がおわるとともに、市内ですが西の方に引っ越しました。ますます中心部に行く機会が減り、被害を目の当たりにすることもなく時が流れました。

写真は箱根湯本駅から見た小田原方面 (2008 年 1 月 10 日撮影)。三線軌条です。