寺町計算言語

計算の話や言語の話もするかも。多少は。※個人の見解であり、所属する組織の公式見解ではありません

多様性


多様性 (diversity) という言葉の使われ方には問題があるのではないかという話をします。たぶんそんなに危険ではありません。

多様性を「ある系の中でのある観点におけるばらつきの度合い」と定義しても、それほど外していないと思います。生物多様性 (biodiversity) を語るときには、この定義で支障はなさそうです。

問題は人間に適用する場合です。人間社会で生物多様性に近い現象として思い浮かぶのは、インドのジャーティです。職業や通婚関係という点でジャーティはそれぞれ異なります。社会 (系) に様々なジャーティが存在するという点で多様です。ついでに言えば、それぞれのジャーティが補完的な役割を果たすことで社会が維持されているという点でも生物多様性と共通します。

性別は基本的に 2 種類しかありませんが、どの社会にもほぼ半々存在します。性別の点で社会は多様と言えるでしょう。

そろそろ限界でしょうか。何かがおかしいわけです。例えば性別労働分担をなくしたいとしましょう。上記の定義からすると、性別労働分担の有無に関わらず、社会は多様です。多様性は所与のものであって、系に介入することで変えるべき対象ではありません。多様性の実現を標榜する運動は、実態としては、その逆で、別の観点における均質性を実現しようとしているのではないでしょうか。(1) ある観点における均質性、(2) 別の観点における多様性の両方を満たすことが事の本質です。そうなると、多様性という言葉は不適当であり、別の言葉を用意する必要があります。

写真は生駒山宝山寺 (2017年11月19日撮影)。とにかく危険です。