寺町計算言語

計算の話や言語の話もするかも。多少は。※個人の見解であり、所属する組織の公式見解ではありません

かつて教授たちは偉く見えた


思い返せばその昔、学部4回生や修士のころ、学生たちが発表して教授陣が質問する機会が何度かありました。主には卒論や修論の試問です。学生はピンぼけした発表をするわけです。私などは何が要点なのかわからず、すぐに理解を諦めていました。ところが、どういうわけか教授たちは発表内容を理解して、本質的なツッコミを入れたり建設的な提案を行ったりしていました。もちろん他の研究室の発表なので専門外です。修論はともかく、卒論ははじめて聞いているはずです。今思うと、その発表自体は初見としても、毎年の卒論・修論の試問を見て、他研究室が何をやっているかある程度把握していたのでしょうけど。某先生などは、発表中は寝ている (ように見える) のに、質疑になると的確な質問を始めるのです。職業柄、新しいことを短時間で理解する能力を発達させているようです。そういう光景を見て、何だかんだ言って、京大の教授というのは偉いんだなあと思ったりしていたのでした。

どうしてこんなことを思い出したかというと… (以下自主規制)

写真は嵐山の電電宮 (2008年1月14日撮影)。由緒正しいお宮なのですが、電気関係者が悪乗りして今の姿になってます。