寺町計算言語

計算の話や言語の話もするかも。多少は。※個人の見解であり、所属する組織の公式見解ではありません

部族主義


米国の状況を指して部族主義 (tribalism) と形容するのを目にします。これが気に入らないという話をします。

tribalism は、社会の一部しか覆わない小集団に帰属意識を持つというような否定的な意味合いで使われています。まず不思議なのは、なぜ「部族」なのかです。日本で似た意味の言葉を探すと「村社会」でしょう。村は私にとってははじめから失われていたものですが、ともかく自分たちの社会の内側に村が存在するという意識があります。それに対して、部族は他者として明確に切断されています。悪いものは本来的に自分たちの外側にあると言いたげです。

tribalism が用語として不適当な理由は他にもあります。米国で「部族」同士が延々と争っているのと同じような状態が本来の部族にもあてはまるのでしょうか? 部族といっても色々ありますが、狩猟採集民の部族 (バンドとよぶほうが適切かもしれません) などは人口もなかなか増えませんし、互いに争うよりも棲み分けるのではないかと推測します。部族とはよばないと思いますが、インドのジャーティも一種の棲み分けです。米国の状態を指すのであれば、相手を打ち負かすまで争い続けるという側面をくみとる必要を感じます。

そこで、tribalism に代わる用語として Americanism を提唱します。Americanism も既にいろんな意味で使われていて収拾がつかない気もしますが、他でもない米国に本来的に備わっている性格であることを明示できます。

写真は城端駅近所のスーパー。2017年12月30日撮影。

垂れ流し芸


現実逃避です。ネタ切れのこの日記の再利用を考えてみます。自由に使える時間がどんどん減っていくなかで、この先どうやって生きていくかを考えています。一つ考えているのが、文章生成の高速化です。真面目な文章を真面目に推敲するのは良いのですが、それ以外の文章は前から順番に生成していって最後まで生成したらそれで終わり、という書き方を確立したいのです。ちょうどしゃべるようにです。頭の中を整理するために書き出すというやり方をいままで採ってきましたが、限界を感じています。でもあいかわらず話すのは苦手です。折衷案として、話すように書きつつ、伝えるべきことを効率的に直列化する訓練をするというのが今回の趣旨です。

写真は岡山コンベンションセンター入り口 (2017年7月30日撮影)。NLP2018 の会場。

冷夏?


「今年の日本は冷夏」という悪い冗談を聞きました。先週東京に出張した際にはそんな感じはしなかったのですが。Google Trends で「冷夏」を調べると、東日本でそう言われているのが確認できます (画像は本日のスクリーンショット)。interest が宮城県の 100 に対して、東京が 42、京都が 20 です。地図の色分けは微妙ですが、数値で見ると東西の対立がわりときれいに出ています。ただし、秋田県が上位 30 都道府県に入っていません。太平洋側の現象でした。関西にいると、東北の出来事は外国のことのように遠く感じます。そして、影響が東京に及んだときに限って、東京のメディアがまるで日本全体の出来事のように扱うのを観測できたりします。

有線通信工学講座


坂井利之先生が今月亡くなったという知らせがありました。私は一応。坂井先生からすると曾孫弟子ということになるはずです。それ自体は別に驚くことではありません。国内の情報系の主要研究者の何割が私と同様の立場にあるのかわからないほどです。お会いしたことはありません。私が小さい頃に退官されていましたし。略歴を見ると、研究的には何もかもが未分化で混沌としています。今後どれほど人工知能が流行ろうとも、ここまで分化して発展するとは想像しにくいです。

研究の中味だけでなく、組織のうえでも、坂井先生のひいた路線の延長にいることをときどき思い知らされます。話によると、坂井先生が情報工学科を作った際、何かの事情で長尾先生を電気系に残していったそうです。いま書かれたものを確認してもそのようです。特に衝撃を受けたのは、電気系の学部の会議で、確か4回生の配属に関する議題だったと思うのですが、松山研究室と黒橋研究室が「旧有線通信工学講座」というくくりで登場したことです。私が生まれるはるか前に作られた体制が、多少の変更はありつつもいまでも残っています。なかば呪いのようです。日本の情報学が歴史的に電気系から派生したことは否定しようもありませんが、大学内の情報系の組織では意識的に「工学」の文字を削ってきたということを断片的に何度か聞いてきました。それを電気系の組織内で行うのはとても難しいようです。

写真はJR藤森桃山駅間 (2017年8月26日撮影)。複線化の工事がはじまっていました。

沈黙


たまには時事ネタを見てみましょう。取り上げるのは流出した G 社の内部メモ (以下 Damore メモ) です。危険な話題です。慎重にいきましょう、と言いたいところですが、ヘッジしまくると日記の分量では収まらなくなります。要点だけを書きます。やはり危険な話題です。

そもそもアメリカで、特に大学で異常が起きていることを知ったのは、当時 Harvard の学長をしていた Lawrence Summers が辞任に追い込まれた事件がきっかけでした。いま調べると、発言が 2005 年で、辞任が翌年でした。気がつけば、もう 10 年以上も前です。Summers の事件は今回の事件とよく似ています。いずれも男女の違いを分布の違いと見ていました。Summers は平均が同じで分散が違う (男の方がすそが長い)、Damore メモは分散は同じで平均が少しずれているという説明です。どの形質を取り上げるかにもよりますが、情報系に関わる形質であれば、Summers の説明の方が実態に近そうだと私は推測します。ともかく、2 つの分布は大きく重なっていて、個人に対する説明能力がないことを Damore メモは強調しています。今回の事件を批判的に取り上げた記事は、軒並み分布に関する議論を無視していました。厳しい気持ちになります。

性差に関する話はここまでにしましょう。問題の本質は、対立する 2 つの立場のうち、一方が他方を権力によって黙らせる (silencing) こと、その結果、イデオロギーが科学に優越し、一方の意見だけが表明され続ける echo chamber ができあがっていることです。James Damore が G 社を解雇されたことで、この点に関する Damore メモの正しさは実証されました。多様性というお題目に異論はなくとも、具体的な実装となると、かくも危険な状態に陥りがちです。言語処理分野でも、アメリカを中心に、多様性について盛り上がっている人たちがいますが、あまりにナイーブで、見ていて不安になります。

あと、いろんな反応を見ていて気になったのは、メモの質を理由に解雇を正当化する言説が目立つことです。Damore メモは単なるメモで、典拠を全然示していません (追記: 典拠がないように見えたのは、リンクが消えた平テキスト版を見ていたからで、元文書はいろんな文献をリンクの形で引用していました)。根拠となる論文を引用して武装することもできたでしょう。しかし、質を理由にするのは筋が悪いです。対立する 2 つの立場のうち、一方はどんないい加減な憶測も流し放題で、他方は完璧でなければ存在を許されない (仮に完璧な議論が存在したとして、それでフェミニストが納得するとも思えませんが) という非対称的な構造が、科学に対するイデオロギーの優越を支えています。

過去を振り返ると、Marr の学説も Lysenko の学説も滅んだことを我々は知っています。怪しげな言説について立場の選択を迫られたときは、それが 30 年先まで維持可能かを考えて決めたいところです。誤っていると自分では確信している事柄について、あたかも正しいと思っているかのように振る舞うには、ある種の社会性が必要です。そんな器用なことができる人は、ソフトウェアエンジニアではなく、別の仕事を選びそうです。

写真は京大吉田南キャンパス (2011年8月5日撮影)。以前はテニスコートで今は建物がたっている場所。